近況および楽に暮らす工夫

京都は先週からマジで寒い。

ここ数日の調子は最悪で、先週末にハードに動いた反動でどっと疲れが出て、布団でくねくねしながらスマホを見る時間がとても長くなっている。

ちょっと調子悪いなっていう兆候はあったんだけど(e.g. 起床がだるい、初対面の人とのコミュニケーションで下手を打つ、自信なさげなボディーランゲージを無意識に多用する等)、それが現実になってしまった。

調子が悪くなっている原因は、太陽の光を浴びていない、食事の質が悪い、運動していない、あたりだろう。こういうのって一旦落ち込むと回復する気力も削がれて長引くからなあ、と人ごとのように思う。やべー。

最近、なるべく楽にまともな生活を維持しようと工夫してるんだけど、こうやってズドンと底に落ちてしまうと全部無駄な気がして悲しい。

ここで終わってもいいんだけど、せっかくなので自分が試みている工夫を書こうかな。精神状態が悪化して実践できていないものもあるけど。

朝食のメニューを決める

朝食は食べた方がいいけど、いちいちメニューを考えて作るのはだるいので、食べるものを固定した。白米・豆腐・納豆・キムチを毎日食べている。

たんぱく質を取りたいけど、肉を調理するのは面倒だし、かといって加工肉を常食するのは体に悪そうなので植物性たんぱく多めのメニューにした。キムチは豆腐の味付けプラス発酵食品枠。

具体的には、白米は2合ずつ炊いておいて、2回(1回1合)か3回(1回2/3合)で使い切る想定。豆腐と納豆は3パック入りの安いやつを買ってる。キムチは以下の商品が瓶入りかつアミノ酸無添加で、味も悪くない上にわりと安いのでリピートしてる。

www.e-sanki.jp

このメニューのいいところは、全部既製品かつまとめ買いが容易なこと。今のところ、週末に翌週の分を買いだめしておくという運用にしている。

生存ボックスを作る

呉樹さんのエントリに書かれている、すぐ食べられる食品を入れておく「生存ボックス」を作った。ポカリ、おかゆ、パックごはん、レトルト食品、袋麺、お菓子などを入れている。やはりあると安心感が違うし、精神状態が悪化した今も大いに役に立っている。使ったらスーパーで定期的に買い足すという運用にしている。

水を飲む

水を飲む習慣が全くなかったことに気づいたので、意識的に水を飲むようにした。水って意外とうまい。

Google ToDoでタスク管理

記憶力がかなり悪いので、タスクが生じた瞬間にGoogle ToDoに入力するようにした。タスクの重みづけも重要なので、「やるべきこと」「やりたいこと」「買いたいもの」の3種類のリストを作って分類している。明確な締切や繰り返しがあるものは、ToDo上の機能を使って反映させている。とはいえ、書いただけで着手できていないタスクが多々あるので、タスク管理の方法を改善できないかは考えたい。

 

眠くなってきたのでこのくらいで。

ところで、ここまで書いてきた工夫は、以下のかもリバーさんの記事および呉樹直己さんの記事を参考にしています。どちらも、「気分が落ち込んでもローコストでできる」生活の工夫が紹介されていて、とても良い記事。xcloche.hateblo.jp

www.infernalbunny.com

 

うーん、うまく人間らしい生活を送りたいよ~~~~~~

(終)

 

あるいは蒸発について

まず書いておくと、ひとつ前の記事に書いた娯楽断食はわりとうまくいった。ただし、期間限定というレギュレーションだったから、終わってからはすっかり元の生活に戻ってしまった。とてもありがちなことである。

蒸発という甘い考えは、困窮したひとびとにしばしば舞い降りて、彼らに現状を忘れて空想に耽るひとときを与えてくれる。それは最近の私にも。

どこか遠く離れた土地、誰も知り合いがいない土地に行けたなら。

面倒なしがらみもなく、面倒な仕事もない、最低限の衣食住が揃った土地で穏やかに暮らせたなら。

そんな益体のないことを考えるときは、いつだって現実がままならないときで、要するに最近の私は行き詰っているのだった。

つげ義春は、蒸発というモチーフに正面から向き合った漫画家の一人だろう。

 

彼の作品を初めて読んだのは、たしか2019年の一橋のオープンキャンパスのときだった。きれいなロマネスク様式の建物の写真がスマホのフォルダに残っている。

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どうせなら図書館も見てやろうじゃんと思っていた私は、書棚を見て回って、漫画コーナーにあった『無能の人』に目を止めたのだった。風采の上がらない主人公が売れないとわかって石を売る話。なんだか暗いなあと思って、そこでは読み進めなかったが、しっかりと記憶には残っていた。

そうして、その1年後、高校3年生のときに、勉強していた図書館で再びつげ義春に会うことになる。図書館には『つげ義春全集』が揃っていたのだ。『無能の人』『やなぎ屋主人』『ほんやら洞のべんさん』『西部田村事件』『李さん一家』など、寂しさとユーモア、都市性と土俗性が混じったようなつげ義春の漫画に、私はすぐ傾倒してしまった。

蒸発や漂泊をテーマとした作品を多く描いたつげ義春が、87歳になった今でも生きながらえて、調布のどこかで暮らしていると考えると、それは何か希望になる気がして、ときどき思い返している。

先々週、紀伊山地のブナ帯に行ってきた。かつて多くの山伏たちが登ったであろう信仰の山々。空気は冷たく澄んでいる。向こうの斜面には冬日が当たり、そこに密に立っているブナの白い幹が、遠くからでもよく見えた。

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娯楽断食をはじめる

寮の先輩であったところのあおい知颯さんが書いたこのnoteがある。

 

note.com

 

このnoteの主題は、プラトンの『国家』を読んだ感想で、特に、『国家』は弁明(≠証明)の形式で進んでいくことや、哲学と科学の違いが語られる部分はとても興味深い。 

しかし、当時私があおいさんの口から聞いていて、かつこのnoteを刺激的にしているのは、後半の「娯楽断食」について書かれた部分であろう。

少し引用してみる。

 

プラトンの言い分は、ざっくり言えば「魂においては、理性が欲望を制御している状態こそ望ましい」ということである。もっと言えば「悲しみに暮れる暇があったらいち早くその状況を打開して幸福になる道を考えんかい」ということである。

また「自分に適した仕事をする時間以外は何もしないことが正しい」とも述べる。

主は一旦これを信じて、読書8日目から娯楽断食というものをしてみた、というわけである。上の二つのことが同時に実行できると直感したからである。一人の時間にしていた、ゲーム、漫画、アニメ、youtube、音楽を断った。

こうすることで、学生の本分である「勉強」以外何もしない、が実現できた。体験してみると、それまでのように心が乱れず、常に勉強による報酬を感じられて、不思議な心地よさ、幸福があった。

 

要するに、プラトンが理想とした「理性が欲望を制御する状態」を再現するべく、欲望の対象である娯楽を制限してみたら、意外とうまくいったという話である。

インターネットの娯楽で心ならずも時間を溶かしてきた身としては、この娯楽断食はとても魅力的に映る。ストイックな姿勢で娯楽を遠ざけて学問に専心する! これが学生としての理想でなくて何であろうか。

肝心の『国家』も読んでいない(私はプラトンの著作をひとつも読んだことがない)のに結果だけまねるのは下品だと思うし、なにか一発逆転願望のようなものも感じられてよくない気がするが、ともかくこの娯楽断食をやってみたいと思う。

レギュレーションは以下。

 

  • ひとりの時間にほとんどの娯楽を断つ
    • 娯楽として、1冊だけ本を読むことのみ許される。ただしその本を通読するまで次の本に移ってはいけない
    • 娯楽に含まれないものは、専門の勉強、資格の勉強、プログラミング、寮とサークルの仕事、連絡、執筆、標本整理、部屋の片づけ、運動、食事、睡眠のみである
  • 言明されていない部分についてもなるべく欲望を抑えて行動する(e.g. 睡眠は娯楽に含まれないからといって寝ブッチをしない)
  • だれかと一緒にいるとき上記は適用されない
  • 2024年9月末(うちの大学の夏休みの終わり)まで9日間行う

 

娯楽を余事象から考えて定義しているが、これは問題ないだろう(娯楽はあまりにも膨大なため)。どちらかというと問題は「娯楽に含まれないもの」が多すぎることだが、サークルや寮で〆切つきの仕事がたくさんあるのが悪い。

ありがちなことだが、レギュレーションを少しずつ改変していくと全く意味がないので、これを忠実に守ることにする。

それではやってみよう。かつてのあおいさんと同じ安寧を得られるかはわからないが、何がしかが得られることを祈って。

午前4時の部屋にて

 最近どうしているかと聞かれたらどうもしていないと答えざるをえない。

 午前4時。たまり部屋の古い畳はあちこちが毛羽立っていて、その上に無造作に置かれた座椅子も大して清潔ではない。扇風機とウィンドウクーラーが、意識の内側ぎりぎりのところでうなり声をあげている。けだるさと深夜特有の少しばかりの高揚感。PCの電源をつけてはてなブログのエディタを開いてみる。

先月撮った写真。網走のオホーツク海

 3回生というのはたちが悪い、という話を最近友人と何度もしている。下に1, 2回生の後輩ができるし、いつのまにかサークルでは最高代になり、研究室配属が始まる。1, 2回生までは「ナイーブだが好奇心旺盛な人間」というキャラクターで通してきた(あるいは演じてきた/演じているうちに同一化してきた)し、そのキャラクターが自分の立ち位置とも合致している感覚があった。しかし、3回生になると「専門分野について十分な知見を持ち責任を果たせる人間」が求められている気がして、なんとなく居心地が悪くなってきている。すなわち、求められる振舞いが後輩しぐさから先輩しぐさに変わりつつあるのだ。

もちろん、コミュニティごとに求められる振舞いのフェーズは変わる。サークルでは先輩しぐさが必要になっているが、例えば研究室の中では(たかが3回生のぺーぺーなので)まだ後輩しぐさが有効だろう。しかし、学部の4年間を俯瞰して見たときに、3回生は後輩しぐさから先輩しぐさへの転換期と言えるのではないか。

 だからこそ最近、謎のあせりが生じているのかもしれない。だけど中途半端に忙しい(数えてみたら夏休みの2か月のうち45日くらい旅行していた)ため、勉強をしたりしてあせりを解消できない。家に帰ってきても旅行疲れで生活リズムが狂っていく。飲み会は頻繁に行われて、睡眠はだんだんと削れていく。冷静な判断ができない。

 そんなとき、ぼくはいつものようにスマホを見てしまい、引き際を失う。ベテランち、雷獣、Tennis TV、あるいはたくさんのブログやnoteたち。はてな匿名ダイアリーはてなブックマークを、帰省して暇をもてあましている人のように漫然と眺める。コンテンツは無数に供給される。インターネット・ポルノとその無断転載もあまねくあふれている。

注意力を散漫にしてこれらを見ていると脳も時間も溶けていく。やめるきっかけを自分で作れない。いや、正確には「飽きること」が自発的に動き出すきっかけになるが、見始めたときからゆうに3~6時間くらいは経っているのが普通だ。今日(昨日)も同じで、18時くらいからなんと9時間以上もスマホを見ていたことになる。マジモンのアホである。

 そうやって飽きてスマホをやめてシャワーを浴びるとなにか元気が湧いてくるのもいつものことだ。3時半くらいから、Spotifyスピッツを流しながら床掃除をしたりシーツを変えたりした。本当は空虚であっても体が動くのはいいことだ。ぼくが今後どうなるかはわからないが、わからないなりに生きていくしかない、というつまらない結論になる。どうであれ時間は流れるのだけど、せめて踊っていたいとは思う。それが実現できるかはさておき。

今月撮った写真。塩飽諸島(本島)から瀬戸内海を臨む

ぼくたちはなんだかすべてわすれてしまうね

  • また体調を崩して、普段ふつうにできていることができなくなってしまった。体調を崩すと(なぜか)ブログを書きたくなるので、ブログの記事にあらわれる自分はいつも曇った横顔をしている。それでもいいと思う。

 

  • Twitterのタイムラインは断片的な情報の集積というべきもので、無数に生まれるその断片たちを一瞬で読んで、一瞬でレスポンスをして、一瞬で忘却するということを繰り返していると、確実に体調が悪くなる。布団に横たわってTwitterを見ていると、特に。まず、だんだんとだるくなってくる。手足に力が入らない。起き上がるのが面倒くさい。そうして、ただ頭のみが覚醒するのだけど、その頭もぼうっとしてきて、メタ認知ができなくなる。いたずらにビビッドな情報が脳を通り過ぎていくだけ。さっき読んだツイートはすぐに忘れてしまう。俺はなんでこんなことをしてたんだっけ。

 

  • そして、この現象はTwitterで特に顕著だけど、インターネットすべてに言えることでもあると思う。私たちはネット上の膨大な情報に、スマホという小さい端末を通じてたやすくアクセスできる。ただ検索窓に数単語入力するだけで。あるいは、サジェストされる音楽や動画を選んでいくだけで。アクセスに必要な労力が限りなくゼロに近いからこそ、無目的にコンテンツを摂取することが可能になる。もはや調べたいこと、見たいもの、聴きたいものなんてないのに、惰性でスマホを手にし続ける。どうすればいいんだろうね。

 

  • 主語が大きくなってしまった。とにかく、ここ数日、夜にスマホを見続けるという行為に浸りきってしまい、当然ながら睡眠が削れてとてもまずい。3日連続で早朝の4時に寝たりしている。最初の1, 2日は体力のストックがあったので何とかなったが、いよいよだめになってきた。おそらく、生活習慣の改善には、健康的な生活リズムを(文字通り)習慣として導入するしかないのだろう。毎日夕食を早くたべて、シャワーを浴びて、スマホを見ず、寝る。私のような人間にとっては習慣化がいちばん難しいとはいえ、がんばるしかないか。
    • そういえば、はてブでは、id:xevraの「睡運瞑菜」がミームになっていたことを本当に久しぶりに思い出した。高3~浪人のはてなを巡回していた時期が懐かしい。大していい思い出じゃないけど。

 

  • 日記;今日は午後3時ごろに活動を開始し、力を振り絞って部屋を出て近所のカフェに行った。ごはんを作る余裕がないときに食べるカフェ飯はとても美味しい。玉ねぎ、マッシュルーム、コーンビーフが入ったピラフだった。バターとオリーブオイルがほのかに香ってhào
    • カフェでは、岩波のゴーゴリ『検察官』と、芥川『河童・玄鶴山房―他八篇』を読んでいた。どちらも積読本。『検察官』は非常にスタンダードな喜劇という感じ。貧乏人が地位の高い人を騙って好待遇を受けるという構造はわりと典型的だよね。「お偉いさんが貧乏人にへこへこする」「お偉いさんが都合の悪いことを隠蔽しようとする」「最後に貧乏人だということが明かされる」「本当の地位の高い人が現れて裁きが下る」みたいな、この構造で物語を展開するときの要所がほぼ全て抑えてある。というか、こういう古典を読むときにありがちな現象だけど、『検察官』が下敷きになって私が思う「要所」が決まったのかもしれない。古典すぎて実は現在の読者の価値判断にもその古典が影響しているケース。
    • 『河童~』はまだ読み途中。最晩年の短編たちだけあって基本的に暗い。

 

  • 岡崎京子『ぼくたちは何だかすべてわすれてしまうね』、以前から読んでみたいなあと思いつつまだ読めていない。実際のところ、ぼくたちはなんだかすべてわすれてしまう。

偽アフォリズム

  • ねむくて、だるくて、すこし死にたい。ずっと布団に寝転んで本を読んだりスマホを見たりしている。部屋が寒いので暖房器具を近づけているのだけど、その状態で寝ていると喉がちょっとずつかさかさになっていく感じがある。だんだん喉の底が浅くなっていくような。

 

  • 『pink』(岡崎京子, マガジンハウス)を読んだ。このだるい状態で読んで正解だったと思う。『リバーズ・エッジ』ほどは切実に共感できなかったけど(そしてそれは私が大学生だからだろうけど)とてもよかった。大暴れするのかと思っていたワニは意外とあっさり退場してしまったけれど。
    • 主人公・ユミちゃんの造形が、私の周りの人たちとは決定的に違って、そして単純に類型化できなさそうだけど、ああこういう人っているよな、とすぱっと嵌まる感じだった。欲望ドリブンで、しかもそれを周囲から/時代から半ば強制されている雰囲気はバブル期っぽい。ただ、当時ほど派手に可視化されていないだけで、お金を使って生活に不必要な欲望を満たすことが社会の前提となっている構造は現在も変わらないのだろう。
    • 帰省して食卓で『リバーズ・エッジ』の話題を出したら、岡崎京子だと『pink』が好きだったな、当時はみんな読んでたよ、と母親が言ったから読む気になったのだけど、およそ現在の母が好む作品とは違っていて面白い。母もこの漫画と同時代を過ごしていたんだなあ。
    • 岡崎京子は絵がすごい。このまえサブカルに詳しい先輩と話していて、あれってほぼラフスケッチだよね、と言われたけど、最低限の絵でストーリーを的確に表現できるのはすごい才能だと思う。昭和の漫画を読んでいるとデフォルメ顔が古臭くて鼻についたりするけれど、岡崎京子の絵からはそんな感じが全くしない。

 

  • 物心がついてからずっと人差し指タイピングで、是正しようと思ってホームポジションを使った正規のタイピングを覚え始めているが、かなり難しい。両手の人差し指だけでそこそこ速度を出せる(WPI290くらい)ので、ポジションをいちいち確認しないと打鍵できない状態がもどかしい。パソコンでなにか書くときの打鍵速度は、口頭でしゃべるときの発声速度とパラレルだと思う。私はたまに舌が回らず滑舌が悪くなることがあるが、そのときのコミュニケーションの場にうまく参与できないもどかしさと、打鍵が遅いことのもどかしさはとてもよく似ている。

 

  • 恋人に対して軽いメサイアコンプレックスを持っている自分に気づく。自己嫌悪がまたひどくなる。
    • ある人の「〇〇(私の名前)は純粋だから~」という発言を聞いて食い気味に否定した。

 

  • 冬服ってもこもこであたたかくて、着ていると内部の身体のおさまりがよい(よすぎる)のでスポイルされているような気分になる。夏に半袖の服を着るときに比べて、意識が鈍るというか、身体感覚がなくなるというか。私は身体を通してもっと鋭敏に世界を知覚していたい。そうすると寒いけれど。

 

  • 名言とされるもののほぼすべてが言い切りであることをぼんやり考えていた。

 

  • 善いものをつくりだす能力をください。それが無理なら、どうか善いものと悪いものを辨別する能力をわたしから奪ってください。

ねむれない夜に——藪内亮輔『海蛇と珊瑚』

 ねむれないので手近にあった歌集から歌を引用します。藪内亮輔『海蛇と珊瑚』(角川書店, 2018)から、好きな歌を。

 

「花と雨」

鉄塔の向かうから来る雷雨かな民俗学の授業へ向かふ

春のあめ底にとどかず田に降るを田螺はちさく闇を巻きをり

階段にZigzagに差すひかりありあいまいな態度のまま逢ひにゆく

雨はふる、降りながら降る 生きながら生きるやりかたを教へてください

 

「Between, Between, Between」

十本の脚に五本の腕は生え蟹走りして来るんだ闇は

眼球の比喩の葡萄を剥きながらむきながら葡萄の比喩の眼球

 

「生滅」

光らせる 光らせられる ゆきはふるい記憶のなかの睫毛にとまり

頭蓋に蝶形骨を忍ばせてわれら街ゆくときの霜月

 

「冬の鷺」

夕空と夜空のまざりあふ場所をしづかにゆきて帰らざる鷺

 

「海蛇と珊瑚」

月の下に馬頭琴弾くひとの絵をめくりぬ空の部分にふれて

みづの上に青鷺ひとつ歩めるを眼といふ水にうつすたまゆら

おしまひのティッシュペーパー引くときに指は内部の空もひけり

冬の浜に鯨の座礁せるといふニュースに部屋が照らされてゐる

うつほぐさぷーぷー吹いてあそびゐる子のなぐさめとなりにけるかも

絶望があかるさを産み落とすまでわれ海蛇となり珊瑚咬む

 

「魔王」

枯れたからもう捨てたけど魔王って名前をつけてゐた花だった

愛はつね逢ひをさびしくすることの雨の純銀に濡れてゐる花

 

「適当な世界の適当なわたし」

フロマンタンカラテオドリの名前おもしろさ選手権カラテオドリの勝利

 

蜚蠊縁火炎図

TAISYUよ君らが麦のこころもて瑠璃色に照るTSUTAYAへゆく頃

眼のなかに眼1はあなたを見てゐるが眼2はあなたの背後の椿

 

「私のレッスン」

「ゆ」つてさあ、おさかなみたいだよねつて君は云つたね、ゆきはふりつつ

 

「しなせる」

わたしつて重い? さうだね、おもひだね。牛裂きのこころがふらす雨だね。

私の叫びが春の艸花を生むけれどぜんぶ毟ってすてておいてね

愛滅びない愛滅びない愛はいつかホロンバイル草原になれ

 

「ラブ」

店員が適当に拭くテーブルのきらめきだよね。ラブ。あなたに。

大根で撲殺してやると思ひたち大根買つてきて煮てゐたり

ひとつづつ辛いを辛いに変へてゆきなんて光の散るキムチ鍋

 

「白銀景」

沈丁花まできて終はる月光のかすかな照り返しをあびてゐる

 

「雑詠」

たしかわたしはゆふぐれだった筈なのにほろんでキリンになつてしまつた

 

 いい歌集だ。感情が入った歌もいいけど、叙景歌が飛び抜けて秀逸で痺れてしまう。愛唱しているものが何個もある。構造がおもしろいもの、アイデア勝負のもの、ホラーに寄せたものと多様な歌があるのもいい。歌集全体で見ると、後半でやや「わかりにくい」歌にシフトしている印象だけど。

引用した歌は偏っているけど、それはそのまま私自身の嗜好の偏りを表していて、やっぱり私はかっこいい歌とおもしろい歌が好きなんだ。初めて読んだのは1年前なのだけど、そのころと根本的な好みは大して変わっていないらしい。

ねむくなってきたのでこのへんで。