ぼくたちはなんだかすべてわすれてしまうね

  • また体調を崩して、普段ふつうにできていることができなくなってしまった。体調を崩すと(なぜか)ブログを書きたくなるので、ブログの記事にあらわれる私はいつも曇った横顔をしている。それでもいいと思う。

 

  • Twitterのタイムラインは断片的な情報の集積というべきもので、無数に生まれるその断片たちを一瞬で読んで、一瞬でレスポンスをして、一瞬で忘却するということを繰り返していると、確実に体調が悪くなる。布団に横たわってTwitterを見ていると、特に。まず、だんだんとだるくなってくる。手足に力が入らない。起き上がるのが面倒くさい。そうして、ただ頭のみが覚醒するのだけど、その頭もぼうっとしてきて、メタ認知ができなくなる。いたずらにビビッドな情報が脳を通り過ぎていくだけ。さっき読んだツイートはすぐに忘れてしまう。俺はなんでこんなことをしてたんだっけ。

 

  • そして、この現象はTwitterで特に顕著だけど、インターネットすべてに言えることでもあると思う。私たちはネット上の膨大な情報に、スマホという小さい端末を通じてたやすくアクセスできる。ただ検索窓に数単語入力するだけで。あるいは、サジェストされる音楽や動画を選んでいくだけで。アクセスに必要な労力が限りなくゼロに近いからこそ、無目的にコンテンツを摂取することが可能になる。もはや調べたいこと、見たいもの、聴きたいものなんてないのに、惰性でスマホを手にし続ける。どうすればいいんだろうね。

 

  • 主語が大きくなってしまった。とにかく、ここ数日、夜にスマホを見続けるという行為に浸りきってしまい、当然ながら睡眠が削れてとてもまずい。3日連続で早朝の4時に寝たりしている。最初の1, 2日は体力のストックがあったので何とかなったが、いよいよだめになってきた。おそらく、生活習慣の改善には、健康的な生活リズムを(文字通り)習慣として導入するしかないのだろう。毎日夕食を早くたべて、シャワーを浴びて、スマホを見ず、寝る。私のような人間にとっては習慣化がいちばん難しいとはいえ、がんばるしかないか。
    • そういえば、はてブでは、id:xevraの「睡運瞑菜」がミームになっていたことを本当に久しぶりに思い出した。高3~浪人のはてなを巡回していた時期が懐かしい。大していい思い出じゃないけど。

 

  • 日記;今日は午後3時ごろに活動を開始し、力を振り絞って部屋を出て近所のカフェに行った。ごはんを作る余裕がないときに食べるカフェ飯はとても美味しい。玉ねぎ、マッシュルーム、コーンビーフが入ったピラフだった。バターとオリーブオイルがほのかに香ってhào
    • カフェでは、岩波のゴーゴリ『検察官』と、芥川『河童・玄鶴山房―他八篇』を読んでいた。どちらも積読本。『検察官』は非常にスタンダードな喜劇という感じ。貧乏人が地位の高い人を騙って好待遇を受けるという構造はわりと典型的だよね。「お偉いさんが貧乏人にへこへこする」「お偉いさんが都合の悪いことを隠蔽しようとする」「最後に貧乏人だということが明かされる」「本当の地位の高い人が現れて裁きが下る」みたいな、この構造で物語を展開するときの要所がほぼ全て抑えてある。というか、こういう古典を読むときにありがちな現象だけど、『検察官』が下敷きになって私が思う「要所」が決まったのかもしれない。古典すぎて実は現在の読者の価値判断にもその古典が影響しているケース。
    • 『河童~』はまだ読み途中。最晩年の短編たちだけあって基本的に暗い。

 

  • 岡崎京子『ぼくたちは何だかすべてわすれてしまうね』、以前から読んでみたいなあと思いつつまだ読めていない。実際のところ、ぼくたちはなんだかすべてわすれてしまう。

偽アフォリズム

  • ねむくて、だるくて、すこし死にたい。ずっと布団に寝転んで本を読んだりスマホを見たりしている。部屋が寒いので暖房器具を近づけているのだけど、その状態で寝ていると喉がちょっとずつかさかさになっていく感じがある。だんだん喉の底が浅くなっていくような。

 

  • 『pink』(岡崎京子, マガジンハウス)を読んだ。このだるい状態で読んで正解だったと思う。『リバーズ・エッジ』ほどは切実に共感できなかったけど(そしてそれは私が大学生だからだろうけど)とてもよかった。大暴れするのかと思っていたワニは意外とあっさり退場してしまったけれど。
    • 主人公・ユミちゃんの造形が、私の周りの人たちとは決定的に違って、そして単純に類型化できなさそうだけど、ああこういう人っているよな、とすぱっと嵌まる感じだった。欲望ドリブンで、しかもそれを周囲から/時代から半ば強制されている雰囲気はバブル期っぽい。ただ、当時ほど派手に可視化されていないだけで、お金を使って生活に不必要な欲望を満たすことが社会の前提となっている構造は現在も変わらないのだろう。
    • 帰省して食卓で『リバーズ・エッジ』の話題を出したら、岡崎京子だと『pink』が好きだったな、当時はみんな読んでたよ、と母親が言ったから読む気になったのだけど、およそ現在の母が好む作品とは違っていて面白い。母もこの漫画と同時代を過ごしていたんだなあ。
    • 岡崎京子は絵がすごい。このまえサブカルに詳しい先輩と話していて、あれってほぼラフスケッチだよね、と言われたけど、最低限の絵でストーリーを的確に表現できるのはすごい才能だと思う。昭和の漫画を読んでいるとデフォルメ顔が古臭くて鼻についたりするけれど、岡崎京子の絵からはそんな感じが全くしない。

 

  • 物心がついてからずっと人差し指タイピングで、是正しようと思ってホームポジションを使った正規のタイピングを覚え始めているが、かなり難しい。両手の人差し指だけでそこそこ速度を出せる(WPI290くらい)ので、ポジションをいちいち確認しないと打鍵できない状態がもどかしい。パソコンでなにか書くときの打鍵速度は、口頭でしゃべるときの発声速度とパラレルだと思う。私はたまに舌が回らず滑舌が悪くなることがあるが、そのときのコミュニケーションの場にうまく参与できないもどかしさと、打鍵が遅いことのもどかしさはとてもよく似ている。

 

  • 恋人に対して軽いメサイアコンプレックスを持っている自分に気づく。自己嫌悪がまたひどくなる。
    • ある人の「〇〇(私の名前)は純粋だから~」という発言を聞いて食い気味に否定した。

 

  • 冬服ってもこもこであたたかくて、着ていると内部の身体のおさまりがよい(よすぎる)のでスポイルされているような気分になる。夏に半袖の服を着るときに比べて、意識が鈍るというか、身体感覚がなくなるというか。私は身体を通してもっと鋭敏に世界を知覚していたい。そうすると寒いけれど。

 

  • 名言とされるもののほぼすべてが言い切りであることをぼんやり考えていた。

 

  • 善いものをつくりだす能力をください。それが無理なら、どうか善いものと悪いものを辨別する能力をわたしから奪ってください。

ねむれない夜に——藪内亮輔『海蛇と珊瑚』

 ねむれないので手近にあった歌集から歌を引用します。藪内亮輔『海蛇と珊瑚』(角川書店, 2018)から、好きな歌を。

 

「花と雨」

鉄塔の向かうから来る雷雨かな民俗学の授業へ向かふ

春のあめ底にとどかず田に降るを田螺はちさく闇を巻きをり

階段にZigzagに差すひかりありあいまいな態度のまま逢ひにゆく

雨はふる、降りながら降る 生きながら生きるやりかたを教へてください

 

「Between, Between, Between」

十本の脚に五本の腕は生え蟹走りして来るんだ闇は

眼球の比喩の葡萄を剥きながらむきながら葡萄の比喩の眼球

 

 

「生滅」

光らせる 光らせられる ゆきはふるい記憶のなかの睫毛にとまり

頭蓋に蝶形骨を忍ばせてわれら街ゆくときの霜月

 

「冬の鷺」

夕空と夜空のまざりあふ場所をしづかにゆきて帰らざる鷺

 

 

「海蛇と珊瑚」

月の下に馬頭琴弾くひとの絵をめくりぬ空の部分にふれて

みづの上に青鷺ひとつ歩めるを眼といふ水にうつすたまゆら

おしまひのティッシュペーパー引くときに指は内部の空もひけり

冬の浜に鯨の座礁せるといふニュースに部屋が照らされてゐる

うつほぐさぷーぷー吹いてあそびゐる子のなぐさめとなりにけるかも

絶望があかるさを産み落とすまでわれ海蛇となり珊瑚咬む

 

 

「魔王」

枯れたからもう捨てたけど魔王って名前をつけてゐた花だった

愛はつね逢ひをさびしくすることの雨の純銀に濡れてゐる花

 

「適当な世界の適当なわたし」

フロマンタンカラテオドリの名前おもしろさ選手権カラテオドリの勝利

 

 

蜚蠊縁火炎図

TAISYUよ君らが麦のこころもて瑠璃色に照るTSUTAYAへゆく頃

眼のなかに眼1はあなたを見てゐるが眼2はあなたの背後の椿

 

 

「私のレッスン」

「ゆ」つてさあ、おさかなみたいだよねつて君は云つたね、ゆきはふりつつ

 

 

「しなせる」

わたしつて重い? さうだね、おもひだね。牛裂きのこころがふらす雨だね。

私の叫びが春の艸花を生むけれどぜんぶ毟ってすてておいてね

愛滅びない愛滅びない愛はいつかホロンバイル草原になれ

 

 

「ラブ」

店員が適当に拭くテーブルのきらめきだよね。ラブ。あなたに。

大根で撲殺してやると思ひたち大根買つてきて煮てゐたり

ひとつづつ辛いを辛いに変へてゆきなんて光の散るキムチ鍋

 

「白銀景」

沈丁花まできて終はる月光のかすかな照り返しをあびてゐる

 

「雑詠」

たしかわたしはゆふぐれだった筈なのにほろんでキリンになつてしまつた

 

 

 いい歌集だ。感情が入った歌もいいけど、叙景歌が飛び抜けて秀逸で痺れてしまう。愛唱しているものが何個もある。構造がおもしろいもの、アイデア勝負のもの、ホラーに寄せたものと多様な歌があるのもいい。歌集全体で見ると、後半でやや「わかりにくい」歌にシフトしている印象だけど。

引用した歌は偏っているけど、それはそのまま私自身の嗜好の偏りを表していて、やっぱり私はかっこいい歌とおもしろい歌が好きなんだ。初めて読んだのは1年前なのだけど、そのころと根本的な好みは大して変わっていないらしい。

ねむくなってきたのでこのへんで。

1回生の春休み

 はてなブログをはじめた。高校後半から浪人期はずっとはてなを見ていたので、実家のような安心感がある。とりとめもない雑念をつづる場所にしたい。が、変わるかもしれない。別に変わってもいい。ゆるゆるやっていきます。

 

 

 いま大学は春休み。うちの大学の休みは全部で2ヶ月あって、めっぽう長い(国立大学ならどこも似たようなものだと思うけど)。この休みをどう使うかにそれぞれの個性が出ると思うのだけど、「何しよっかな~」と悩んだ私は旅行でうめつくすことにした。はじめて一人で外国に行って、他大との合同実習にも参加して、仲のいい人たちと一緒に生物を見に行って。たぶん合計で40日くらい旅に出ていたはずだ。最後の南西諸島旅行から帰ってきたのが昨日。

 

 旅行のきわだった特徴は、普段の生活に縛られた自分から抜け出して「ここではないどこか」に手軽にトリップ(文字通り!)できることだと思う。サークルの仕事や、やるべきだけど面倒くさい課題などの細々とした雑事は、ハードスケジュールになりがちな旅の途中で頭の中から消えていってしまう。一人旅なら催促する人もいないし。頭を満たすのは、たとえば見たい生物のことだったり、電車で隣になって意気投合したおじさんとの会話だったり、現地の安い食堂で食べた夕食のことだったりする。それらはどちらかというと、「やらないといけないこと」じゃなくて「やりたいこと」、あるいは「偶然そうなったこと」なんだよな。その場その場の気分に従って、やりたいことだけをしながら、なんとなく生きていく方が楽なのかもしれない。で、旅行中のそんな気分を帰ってきた今も引きずっていて、溜まっているいろんな(あまりやりたくない)タスクを処理できかねている。それが喫緊の問題。

 

 私は学部の新2回生なのだけど、1回生のときにやることを広げすぎてしまった感もある。サークルは分不相応に入りすぎてしまったし、いろんな生物を採集しにいろんな場所に行ったし、バイトも始めたし。たぶん元々のタスク処理能力があまり高くないのだけど、手広くやりたいという思い(これが「やらないといけない」という規範意識になりがちで、そこも大きな問題である)はあってどんどん新しいことに首を突っ込むから、そこの齟齬で苦しくなる、というのがここ半年くらい続いている。どうしたものか。

 

 いちおう「1回生のときにできるだけ興味の幅を広げておいて、2回生以降に縮めていけばいい」という戦略も存在するし、それで現状を正当化しようと思えばできるのだけど、どうも縮められる気配がないんだよな。縮める(=撤退する)のをよしとしないマッチョイズムも確実にあるし、あと単純にやりたいことが多すぎる。でも時間は足りないから、残された方法は限られた時間を上手に使うことしかないんだけど、これが私のいちばん苦手なことなのだった。

 

 やることを整理して、手順を最適化した上で取り組むというアルゴリズムが身についていないから、とりあえず時間と労力でぶん殴る、という方法で直近のでかいタスクである大学受験は切り抜けた。けれど、それにはじゅうぶんな気力と体力が必要で、旅行続きで疲れた今の自分には少し辛いなというところ。

 

 

 ふだん全くビジネス本を読まないけど、一冊くらいまともなものを試してみてもいいかもしれない。上に挙げた本はわりとよい噂を聞く。まあ、自分で行動せずに本だけに頼るのもダサいので、動きはじめたい。

 

 それと、どこまでをタスクとしてみなすのかという問題はある。少なくとも私はタスクという言葉を「積極的にやりたくないけど、やることによるメリット(もしくはやらないことによるデメリット)があるからやるべき仕事」くらいの意味で使っているけれど、「積極的にやりたくない」というニュアンスが入っている以上、身の回りのすべてをタスクとしてみなすのは相当辛いことだ。たとえばフィールドに出て生物の記録をつけることや短歌を作ることは自分にとって気軽にできる楽しい営みであって、タスクとみなすべきものではない。でも、精神状態が悪かったり疲れていたりすると、どうもこれらがタスクに見えてくることがある。そのバロメーターは私にとっては積読本(70冊以上あってやばい)で、ポジティブなときは「いつでも本棚から手に取って読める!最高じゃん!!」とか思っているけど、ネガティブなときは「こんなに読まなきゃいけない本があるのに全然読めてない……能力ないんだな自分……」という気分になる。これは現象としてわりと面白い。

 

 まあとにかく来年度はスケジュールを詰めすぎずに学問もサークルも趣味も(あと恋愛も)進めていきたい。いま3/31だから明日からか。この記事を書くことで今のちょっと落ち込んだ状態をリセットして新年度を迎えようとしているのは、明日からやるぞ症候群の変種ではあるのだけど、「明日からやるぞ」と思えてるだけでえらい。しっかり休んでしっかり仕事しよ。